いま、大野耐一を読み返す /半世紀前の『トヨタ生産方式』が、AI時代にも新しい理由

最近、たまたまトヨタご出身の方とお話しする機会があり、その会話の中で、久しぶりに大野耐一氏の名前が出ました。その方は製造技術畑ではなく、事務系の仕事を歩んでこられた方でしたが、ある製造現場の課題について話が及ぶと、工程の流れや滞りを、次々と明快に紐解いていくのです。

そのとき、ふと思い出したことがあります。それが、大野耐一氏の名著『トヨタ生産方式』です。この本の初版は1978年です。私がまだ高校生だった頃、父が読み終えた一冊が家の居間に置かれていました。私はその本を何気なく手に取った記憶があります。私の記憶では、今とほとんど変わらない、印象的な赤と黄色の矢羽根が輪を描くような表紙でした。

当時、父が「だからトヨタは強い」と、独り言のように話していたことを、何故か今でも鮮明に覚えています。もちろん、高校生だった私に、その意味が深く分かっていたわけではありません。ジャスト・イン・タイム、かんばん方式、自働化。そうした言葉も、どこか遠い製造業の話でした。

それから40年以上が経ちました。

トヨタご出身の方との会話をきっかけに、もう一度この古典を読んでみようと思い、すぐに本を取り寄せ、一気に読み終えました。読み返して、驚きました。まったく古くないのです。『トヨタ生産方式』というと、ジャスト・イン・タイムやかんばん方式の本、という印象を持つ方も多いかもしれません。もちろん、それらは重要な要素です。しかし改めて読むと、この本が語っているのは、単なる生産管理の手法にとどまりません。

特に印象に残ったのは、「速ければよい」という発想への違和感です。

速い機械を入れること自体は、もちろん悪いことではありません。しかし、ある工程だけが速くなっても、前後の工程とのつながりが悪ければ、仕掛品や待ち時間が生まれます。部分最適のスピードが、全体の流れを悪くすることがあります。大野氏は、兎よりも亀の方がよい、という趣旨のことを述べています。瞬間的に速く走ることよりも、全体が一定のリズムで流れ続けることの方が強い。これは、現代の技術至上主義への静かな問いかけのようにも読めます。

新しい機械を入れる。新しいシステムを入れる。新しいAIツールを入れる。そうすれば、生産性が上がるはずだ。私たちは、ついそう考えます。しかし本当に問うべきなのは、その技術が全体の流れを良くしているのか、ということではないでしょうか。

いま、多くの企業がAIの活用に取り組んでいます。文章作成、調査、分析、資料作成、メール対応、議事録作成。AIによって、これまで人が時間をかけていた仕事を、驚くほど短時間で処理できるようになりました。業務の自動化は、今後ますます進んでいくでしょう。

だからこそ、私は『トヨタ生産方式』の「自働化」という考え方が、いま改めて重要になると感じています。自動化とは、人がやっていた作業を機械に置き換えることです。一方で、トヨタ生産方式における「自働化」は、単なる機械化ではありません。異常があれば止まる。止まることで問題が見える。問題が見えるから、人が原因を考え、改善する。つまり自働化とは、人間が本当に判断すべきところに集中できるようにする仕組みなのだと思います。AI時代にも、同じことが問われています。

AIは大量のアウトプットを瞬時に作ることができます。資料も、メールも、分析メモも、企画案も、以前よりはるかに速く作れます。しかし、作れるからといって、作るべきだとは限りません。大量の資料、メール、分析、企画案。見た目には仕事の生産量が増えているように見えるかもしれません。

しかし、それは本当に価値を生んでいるのでしょうか。AIによって「仕事の生産量」は増えても、「価値の生産量」が増えるとは限りません。ここを見誤ると、組織は以前より忙しくなりながら、顧客に届く価値は増えない、という状態に陥るかもしれません。

だからこそ、AIを導入する前に、何が価値なのか、何がムダなのか、どこで人が判断すべきなのかを考える必要があります。これは製造業だけの話ではありません。営業でも、開発でも、管理部門でも、サービス業でも、中小企業でも同じです。仕事が増えているのに、成果につながらない。会議や資料は増えているのに、意思決定が速くならない。そうしたことは、多くの組織で起こり得ます。

経営において大切なのは、最新技術を入れることそのものではなく、何が価値で、何がムダなのかを問い続けることではないかと思います。そして、その問いを現場の仕事の流れの中で考えることです。大野耐一氏の思想は、その後Lean Managementとして世界に広がり、製造業以外の領域にも影響を与えてきました。なぜ、製造現場から生まれた考え方が、これほど広い領域に広がったのでしょうか。

それは、そこにある問いが普遍的だからだと思います。

顧客にとっての価値は何か。価値を生まない活動は何か。問題が隠れないようにするにはどうすればよいか。現場の知恵をどう引き出すか。小さく試し、学び、改善する仕組みをどうつくるか。これらは、AI時代の経営者にとっても避けて通れない問いです。AIは強力な道具になり得ますが、道具はあくまで道具です。何を実現したいのか、何を価値とするのかが曖昧なままでは、AIはムダを減らすどころか、ムダを高速に増やしてしまうかもしれません。半世紀前の『トヨタ生産方式』が、いまなお新しく感じられる理由は、そこに技術論を超えた経営の思想があるからではないでしょうか。

高校生だった私には、父の「だからトヨタは強い」という言葉の意味はよく分かっていませんでした。半世紀近くたって読み返してみると、その強さは、最新の設備や特別な技術だけにあったのではないのだと感じます。何が価値で、何がムダなのかを考え抜くこと。問題を見えるようにすること。現場の知恵を引き出すこと。そして、全体がよいリズムで流れるようにすること。その積み重ねが、トヨタの強さを長く支えてきたのかもしれません。

AI時代の今だからこそ、大野耐一を読み返す意味がある。

そう感じています。